真言宗智山派 柏尾山 大善寺
大善寺について
ぶどう寺 大善寺

当寺の開創は養老二年(718)。行基菩薩が日川渓谷の岩上で、霊夢により感得された像 ~ 手に葡萄を持った薬師如来と日光・月光菩薩の薬師三尊 ~ を刻み安置して開かれたと伝えられます。

奈良時代、聖武天皇の御代には鎮護国家の勅額(ちょくがく)と寺山号を賜り、五十二堂三千坊の隆盛をみました。

往持の堂宇は平安初期に焼失しましたが、天禄二年(971)に三枝守国が再建して以来、平清盛、源頼朝の寺領寄進や堂塔修復、北条貞時による薬師堂再建立、仏師・蓮慶作の日光・月光菩薩や十二神将の制作、武田信春の厨子寄進等々。時の為政者と大衆の深い信奉のもとに歴史を重ねております。

現在の薬師堂は、昭和二十九年(1954)の根本的な大解体修理で昔のありさまに復され、その翌年、厨子と共に国宝となりました。

ぶどう寺 大善寺


武田勝頼と大善寺

天下統一を競った武田信玄亡き後、勝頼は織田徳川の連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正十年(1582)3月3日、郡内の岩殿城で再興を図ろうと韮崎の新府城を出発し、大善寺で戦勝を祈願して一夜を明かしました。

しかし、武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田徳川の連合軍に行く手を阻まれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来五百年続いた甲斐源氏も滅亡しました。


その一部始終を目撃した理慶尼が記した「理慶尼記」は「武田滅亡記」ともいわれ、尼の住んでいたこの大善寺に保管されています。


勝頼の家臣たちは、勝頼を最後まで裏切ることなく守り、戦死しましたが、その子供たちは後に徳川家康に重用され、江戸時代には各地の城主に任命されました。勝頼の「宿」となった薬師堂にはその子供たちから寄進された文殊菩薩、毘沙門天が安置されています。

武田勝頼と大善寺

理慶尼

武田勝頼と大善寺

理慶尼記(武田滅亡記)


近藤勇 柏尾山の戦い

旧幕府軍と新撰組は、慶応四年(1868)薩摩藩兵を中心とする新政府軍と鳥羽・伏見の戦いで敗れ、大坂から江戸へ帰還しました。その後、近藤勇を隊長とする「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として新政府軍の東進を阻止する目的で、甲府城の接収を命ぜられ、甲州街道を西へ進みます。


しかし、板垣退助率いる新政府軍3000の一隊はわずか一日の差で甲府城に入城しました。近藤は援軍要請のため土方歳三を江戸へ向かわせる一方、自身は西進し3月5日勝沼に布陣。大善寺に本陣を置こうとしたが、大善寺には徳川家縁の寺宝があるという理由から諦め、大善寺の西側に先頭、山門前及び、東側の白山平にいたるまで細長く配置されたとされています。当初300名いた隊員は次々と脱走し、このときわずか121名だったといわれています。


戦闘は3月6日正午頃から始まりましたが、わずか2時間程で甲陽鎮撫隊は江戸へ敗走することになりました。

近藤勇 柏尾山の戦い

甲州勝沼駅ニ於テ近藤勇驍勇之図
- 中央に近藤勇、右側奥に大善寺の山門が描かれています -